

歴史
おおむね旧鹿屋市、特に旧鹿屋町の範囲を中心とした内容である。
市名の由来
市名の由来は、鹿屋市史によるといくつかの説があるといわれている。
古事記、日本書紀に登場する「熊襲(くまそ)の首長鹿文(かや)」の名によるという説。
周辺に多く自生していた茅(ちがや)の名が、「かのや」に転訛したという説。
鹿(しか)が多く棲息しておりそこから「かのや」になったとの説。
歴史的にみると、平安初期には「かのや」の地名で呼ばれていたということである。
古代
縄文時代早期から人の定住があり、弥生時代には王子遺跡といった大規模な集落がみられるようになる。王子遺跡の竪穴式住居として特徴的なものに、宮崎県南部を中心に分布する「花弁状住居」がある。
古墳時代には南九州地域独自の地下式横穴墓がみられるようになるが、志布志湾沿岸に点在する前方後円墳は肝属川下流の串良町・吾平町でみられるのみで、旧鹿屋市・輝北町では他の鹿児島県内の地域と同様に存在しない。
7世紀ごろは隼人の全盛期であり、ヤマト王権が勢力を拡大する中現在の鹿児島県本土は半独立の状態であった。ただし隼人の一部は早くからヤマト王権とのつながりを深めており、国造・県主となった者も存在した。713年に大隅国が設置されても完全にヤマト王権に服属せず、約6年後(720年)には大隅国国司の陽侯史麻呂を殺害した隼人の反乱が勃発した。ヤマト王権はこれを1年半をかけて制圧し、大隅の支配体制を確立した。班田収授法が大隅国で実施されたのは800年のことであったが、すでに班田収授法は壊滅状態であり、大隅国内のほとんどの領地が荘園[大隅半島内には鹿屋院・串良院・禰寝院などがある。]となった。
律令制では大隅国に属し、鹿屋市の大部分は姶羅郡(現在の姶良郡とは別)・大隅郡(明治時代に消滅、大隅国設置当時の範囲は現在の大崎町から鹿屋市南部にかけての肝属川流域)となった[郡の範囲は『鹿屋市史 上巻』(1967年)90-91頁に基づく。]。なお、当時の肝属郡は大隅半島最南部(現在の南大隅町・肝付町など)に位置しており、中世以降に姶羅郡も肝属郡に含まれるようになった。曽於郡は現在の曽於市・垂水市北部・霧島市東部を範囲としていた。
平安時代中期(930年代)の辞書『和名類聚抄』には、姶羅郡の郷として「鹿屋」「串伎」、大隅郡の郷として「姶﨟」がみられる。地名としての「鹿屋」はこれが初出である。
984年(『高城町 (宮崎県)/高城町史』[『[http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/258860/www.town-takajo.jp/syoukai/tyosi/ 高城町史]』 高城町 (宮崎県)/高城町、1988年。高城町公式サイト内。肝付氏は建武 (日本)/建武年間に高城町にあった三俣院を拠点としていた。]では968年)に肝付氏の祖、伴兼行が薩摩国惣追捕使として下向し、子孫である兼俊が高山(現在の肝付町)へ移住した1036年に肝付氏を名乗る[『高城町史』 [http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/258860/www.town-takajo.jp/syoukai/tyosi/006/005.htm 177頁]。]。肝付氏は島津荘などの荘園を実質的に保有していたが、1185年に島津忠久が地頭として島津荘を管理することとなり、ここからおよそ400年にわたる肝付氏と島津氏の争いが幕を開けることとなった。
* 713年 - 大隅国設置。
* 720年 - 隼人の反乱が勃発。
* 800年 - 大隅国内で班田収授法を実施。
* 984年 - 伴兼行が薩摩国惣追捕使として下向。
* 1026年 - 島津荘が開発される。
* 1036年 - 伴兼行の子孫の兼俊が'''肝付氏'''を名乗る。
* 1185年 - 島津忠久が地頭として島津荘を管理する。
中世
正和年間(1300年代初め)に鹿屋院は肝付氏の一族である'''鹿屋氏'''によって統治され、鶴亀城(後の鹿屋城)を現在の城山公園の位置に置いた。肝付氏とは島津氏の後継者争いがきっかけとした'''応永の戦'''で対立したのを除いてほぼ行動を共にしている。
南北朝時代 (日本)/南北朝時代には荘園が崩壊し、肝付氏は南朝 (日本)/南朝側(公家側)につき、守護大名となった島津氏と対立した。高須港はこの頃から1573年に至るまで肝付氏の一大拠点として機能するようになり、大姶良は禰寝氏支配地との境界線上になったことから多くの山城が築かれた。
戦国時代 (日本)/戦国時代中の1535年に島津氏の内紛が勃発し、肝付氏は島津氏と再び対立した。一時期は島津氏を上回るほどの戦力を保有していたが次第に衰退し、一時は肝付氏側についた禰寝氏が島津氏側に翻ったことが決定打となり[[http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/josetsu/theme/chusei/sanshu/kgs02_s3_4.html 禰寝重長像] 鹿児島県公式サイト内。]1574年に島津氏に降伏した[『高城町史』 [http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/258860/www.town-takajo.jp/syoukai/tyosi/011/011.htm 325頁]。]。島津氏は1577年、伊東氏も降伏させたことで三州(薩摩・大隅・日向)をほぼ統一し、鹿屋氏も肝付氏とともに衰退をみることとなった。
この後、鹿屋を中心とした肝属川流域は「他地域の人間による支配下」に置かれることになる。『鹿屋市史 上巻』(1967年版)では島津氏を悪者と見立て大隅への圧政を強調している[特に「編纂序文」と270-273頁を参照。「編纂序文」は改訂版では削除されている。また、近世篇第1章(425頁)のタイトルは「虐げられた大隅」である。]が、圧政自体は薩摩藩領内で共通する事柄である。
近世(島津氏による支配)
ファイル:Kushira Tojo Kariya.JPG/thumb/串良の地頭仮屋跡
ファイル:Kanoya Fumoto Samurai Gate 01.JPG/thumb/鹿屋麓の武家門
肝付氏亡き後の肝属は、伊集院忠棟が鹿屋城を拠点に地頭として管理した。忠棟は鹿屋城の修復・城下町の形成を始めとして水田開発などによる農業生産の向上、市(いち)の開催を手掛けた。後述する定期市はこのときに始まったものである。
薩摩藩は外城制(後に'''○○郷'''と改称)を敷き、現在の鹿屋市域では鹿屋・大姶良・花岡・高隈・串良・姶良・百引・市成の8郷(花岡と市成は私領)がおかれた。外城の成立時期は地域により異なり、鹿屋郷(外城)の場合は、私領を経て1645年に成立した。'''郷'''は1889年の町村制施行の際にもほぼそのまま村となるなど、後世まで行政区域として機能した。鹿屋市域では「南部(吾平町)」(『鹿屋市総合計画』による地域区分、姶良郷)、「高隈地区」(『鹿屋市総合計画』による地域区分、高隈郷)がその名残を伝える。
鹿屋郷では定期市が月6回開催され、大隅半島各地を始めとして薩摩半島側の指宿市/指宿からも集客があった。当時は島津氏御用達の銘酒として「桜川」が存在したが、幕末と1882年頃の火災や時代の推移とともに衰退した。名産品として鹿屋・大姶良で生産された「高須サツマイモ/甘藷」(高須港から出荷されたため「高須」といわれた)があった[江戸時代後期の地誌『三国名勝図会 巻四十七』(鹿屋郷の項目)に定期市・銘酒・高須甘藷に関する記述がある。『鹿屋市史 上巻』『角川日本地名大辞典』にもほぼ同様の記述がみられる。] 。
薩摩藩領内の農民は農業以外の職に就くことが許されず、年貢も8公2民(収穫のうち8割が徴収される、他藩は4公6民が一般的)という高率であった。この他にも衣食住全般にわたって制約が課せられており、一揆/百姓一揆を起こす余裕すらなかった。逃亡者も数多く発生し、薩摩半島(西目)側から農民を強制移住(人配、「にんべ」と読む)させることもあった。このような壊滅的ともされる[『鹿屋市史 上巻』による表現。『宮崎県史 通史編 近世下』においても、特に疲弊した地域として現在の鹿屋市付近が挙げられている。]経済状況は、明治期になってから改善されることとなる。
この時期の困窮具合を証明する資料として人口の比較が挙げられる。鹿屋郷には1801年時点では6,224人いたのに対し、1824年時点では6,180人に減少しており、逃亡や子殺し/間引きが横行していたことが推測される。
近現代
1888年に肝属郡の役所が鹿屋郷中名(現在の鹿屋市街地)に設置されたことにより、近代都市としての鹿屋の発展がはじまる。1890年代には鹿屋を中心とする道路網が整備され、1910年代には電気・鉄道(後の大隅線)が通じるようになった。
1889年4月の町村制実施時に旧来の郷(外城)は'''村'''となり、現在の鹿屋市域に8か村(鹿屋・花岡・大姶良・高隈・姶良・西串良・百引・市成)がおかれた。鹿屋村は1912年12月31日、鹿児島県内では加治木町に次いで2番目に町制を施行し'''鹿屋町'''となった。西串良村は1932年5月15日、姶良村は1947年10月15日にそれぞれ町制を施行し'''串良町'''・'''吾平町'''となった。百引村・市成村は1956年4月1日に合併し、'''輝北町'''として発足した。
'''鹿屋市'''(初代)としての歴史は、1941年5月27日の鹿屋町・大姶良村・花岡村の3町村の合併・市制施行により始まる。1950年代には高隈村および垂水町の一部地域(根木原・桜町地域)の編入を実施した。この頃は財政が悪化しており財政再建団体となっていた。
1960年代には公共交通機関の利用が最盛を迎え、バスセンターに隣接した桜デパートを中心とした地域の商業が盛んであった[『南日本新聞』 2006年12月28日の社説では「大隅一のにぎわい」と表現されている。]。しかし、1970年代以降にシラス台地に位置する西原地区・寿地区に集落が発展するようになり、1991年度の市役所移転・国道220号鹿屋バイパス全線開通に伴うロードサイド店舗の出店・ショッピングセンター(プラッセだいわ)の開業により、中心市街地は衰退をみることとなった[2001年5月に南日本新聞で市制60周年を機に掲載された特集など。]。この対策として市街地開発事業が実施され、2007年にリナシティかのや(鹿屋市市民交流センター)が開設された。
2000年代に入ってからは「ばらのまち」キャッチフレーズとして使用するようになり、2006年に吾平町・串良町・輝北町と合併し2代目の鹿屋市となった際に市の花もバラに変更された。
=軍都としての鹿屋
=
ファイル:Kanehama Beach Kanoya 01.JPG/thumb/金浜海岸(占領軍上陸の地)
1936年には市内(当時の鹿屋町・大姶良村境)に大日本帝国海軍/日本海軍航空隊の基地が置かれ、真珠湾攻撃訓練の中核地となり、第二次世界大戦中は特別攻撃隊/特攻隊の出撃基地となった。第二次世界大戦後は高須海岸(正確には1km北の金浜海岸)から占領軍が上陸。戦後も海上自衛隊の鹿屋航空基地が置かれ、現在でも国防の一大拠点都市としての役割が強い。防空壕も数多く残されており[[http://www.pref.kagoshima.jp/infra/toshi/gairo/kousinnkanseigairo5.html 特殊地下壕について] 鹿児島県都市計画課。2005年4月時点では日本国内に10,280箇所あり、このうち鹿屋市内(2005年時点のため旧3町は含めない)には594箇所あった。]、2000年には道路陥没による死者が発生している[[http://jcp-akamine.web.infoseek.co.jp/data/05.05.17.htm 危険な地下壕777ヵ所] しんぶん赤旗、2005年5月18日、赤嶺政賢公式サイト内。]。
=学校の設置・廃止
=
明治維新後すぐに鹿屋小学校が設置され、1870年代以降鹿屋市各地にも小学校が設置された。旧制中学校(現在の県立鹿屋高校)は、志布志(現在の鹿児島県立志布志高等学校/県立志布志高校)に設置されていたことや鹿児島県農学校(現在の県立鹿屋農業高校)があったことから1923年まで設置を待つこととなった。
シラス台地に位置する西原・寿地区では人口が増加し続けており、小中学校(寿北・西原台小学校・鹿屋東中学校)が増設されているのに対し、郊外の山間部では減少が続き、旧鹿屋市内だけでも1971年に高牧・桜町、1988年には柏木の各小学校が閉校している。1981年には国内唯一の国立体育大学である鹿屋体育大学が開学し(学生の受け入れは1984年)、1986年には国立の大隅少年自然の家(おおすみくん家)が設立された。
=公共交通機関の衰退
=
1960年代に最盛を迎えた公共交通機関の利用も自家用車の普及に伴い減少していき、1987年3月には国鉄大隅線が廃止され、2006年11月には大隅交通ネットワーク(バス)の路線が大幅に廃止された。現在でも垂水 - 鹿屋 - 志布志間のバスは1時間に1本程度あるが、その他の路線は1日に数本程度に減便されている(鹿屋市コミュニティバスも同様)。鹿屋は鹿児島県・鹿児島市以上に車保有率が高く、完全にモータリゼーションが進行している地域である[ 鹿屋商工会議所。旧鹿屋市の1世帯あたりの乗用車保有率は鹿児島県・鹿児島市・全国いずれも上回っていることが理由に挙げられる。]。
=鹿屋市発足・吾平町制施行
=
1940年、紀元二千六百年記念行事/皇紀2600年であったことや紀元節(2月11日)に川内市(現在の薩摩川内市)が鹿児島県の自治体としては2番目に市制を施行したことに伴い、鹿屋町・花岡村・大姶良村・姶良村の4町村では合併・市制施行の気運が高まった。各町村での議論の結果、1941年5月27日に姶良村を除いた3町村が合併・市制施行した。5月27日は海軍記念日であり、「鹿屋海軍航空隊とともに軍都として発展する」という意味合いがある。
1947年10月15日には姶良村が改称・町制施行し'''吾平町'''となった。名称変更の理由として「鹿屋市の大姶良町や姶良郡宛の間違い郵便・運搬物が多く、支障をきたしている」ことを挙げている。また、当時の新聞記事は改称・町制施行を「1938年10月15日の水害からの復興記念」と報道している[『南日本新聞』 1947年10月16日。]。
=昭和の大合併
=
ファイル:Monument of The Merger of Kanoya and Takakuma 1955.JPG/thumb/高隈村と鹿屋市の合併記念碑
1950年代には鹿児島県が「昭和の大合併」として合併案を提示した。現在の鹿屋市域では以下の通りとなる。
肝属郡高隈村・百引村、曽於郡市成村・野方村の4村を合併して新たな町とする。
串良町・東串良町の2町を合併して新たな町とする。
吾平町・高山町 (鹿児島県)/高山町の2町を合併して新たな町とする。
1については、高隈村は鹿屋市と生活圏が一体化していることを理由として1955年1月20日に鹿屋市へ編入。野方村は分村し1955年4月1日に大崎町・西志布志村(後の有明町 (鹿児島県)/有明町、現在の志布志市)・大隅町(現在の曽於市)に編入された。残った百引村と市成村が1956年4月1日に合併し'''輝北町'''となった。役場は旧百引村におかれ、郡は旧市成村が所属していた曽於郡となった。
2については、串良町側は東串良町との合併には賛成だったが、東串良町側が自立路線を採ったため合併を断念。3についても、吾平町側が自立路線を採ったために平成の大合併に持ち越されることとなる。後に鹿児島県は吾平町と鹿屋市との合併案も示していたが、これも婦人会などの反対により頓挫した。吾平町が合併に反対した理由として高山町との際には「人口の差から合併すれば中心部が高山町となり、現在の吾平町中心部が廃れること」や「両町間の交流が乏しいこと」を、鹿屋市との際には「鹿屋市が当時財政再建団体であったこと」や「鹿屋町と合併した旧大姶良村の中心部が廃れたこと」を挙げている[『吾平町誌 上巻(改訂版)』(1991年)を参照。]。
この他にも、垂水町(現在の垂水市)のうち旧新城村の根木原(ねぎばる)・桜町地区の住民が合併協議の際「鹿屋市と生活圏が完全に一体化している」こと[両地区の中学生が花岡中学校、根木原地区の小学生が鶴羽小学校へ越境通学していたことなど。]を理由に鹿屋市への編入を希望。この結果、1955年1月10日に垂水町として合併した後1958年1月20日に編入を実施した。桜町地区の名称は編入の際に「有武町」と変更されているが、知的障害者援護施設の名称(桜町学園)として現存している。
=平成の大合併
=
2003年7月2日に垂水市・輝北町[曽於郡に属していた輝北町では、曽於北部(大隅町・末吉町・財部町、現在の曽於市)との合併を求める声が住民から挙がったため、2003年5月26日に任意合併協議会(同年2月12日設置)を離脱。6月29日の住民投票の結果、6割の住民が大隅中央地区を選択。7月29日までの間に、2市2町の臨時議会により輝北町の法定合併協議会への参加を議決した。]・吾平町との枠組みで、2005年1月の合併を目指し「大隅中央法定合併協議会」を設置。2003年12月22日には新市の名称を「大隅市」と決定[「新市名は「大隅」に 中央法定協」『朝日新聞』2003年12月23日、鹿児島版。]。2004年1月には串良町も参加した。
ところが、新市の名称に鹿屋市側から反対の声が上がり、2004年3月に新市名変更と合併枠組みの再検討を求める陳情が鹿屋市議会で採択された[「賛成多数で陳情採択」『朝日新聞』2004年3月18日、鹿児島版。]。垂水市は財政難を理由に、鹿屋市側から合併協議会の離脱を求められ、2004年5月7日に合併協議会を離脱した[「垂水市離脱を承認」『朝日新聞』2004年5月8日、鹿児島版。]。
2004年7月1日に「大隅中央合併協議会」を改めて設置し[大隅中央法定合併協議会は2004年7月1日付で廃止された。]、その一員として垂水市を除いた3町と合併協議を進めた。同年11月26日に1市3町は合併協定を調印し、2005年1月7日に県に廃置分合の申請書を提出。3月14日に県が決定書を交付し、同月30日に国から合併が告示され、2006年1月1日に新設合併した。鹿児島県の自治体では初めて地域自治区を設けている(2009年まで)。なお、合併前の2005年12月には鹿屋市に縁のある人物[哀川翔・横峯さくらは鹿屋市出身、柴田亜衣は当時鹿屋体育大学大学院生として鹿屋市在住。](哀川翔・柴田亜衣・横峯さくら)が出演する合併告知コマーシャルメッセージ/コマーシャルが鹿児島県内のテレビ局で放送された。
旧4市町の花は「地域の花」として指定された。鹿屋地域はカンナ、串良地域はバラ、吾平地域はツワブキ、輝北地域はツツジ。
=年表(近現代)
=
* 1871年8月29日(新暦) - 廃藩置県に伴い現在の鹿屋市全域が鹿児島県に属す。
* 1871年12月25日(新暦) - 廃藩置県後の府県合併に伴い都城県に属す。
* 1873年1月15日 - 都城県の廃止(初代宮崎県の設置)に伴い鹿児島県に属す。
* 1874年 - 鹿屋・高隈・大姶良・古江の各郵便局が業務開始。
* 1888年 - 肝属郡と南大隅郡の役所が垂水郷から鹿屋郷に移転。鹿屋が大隅の中心となるきっかけとなる。
* 1889年4月1日 - 町村制度施行により、現在の市域に相当する以下の村々が発足。西串良村(串良郷を東西に分割)を除いて藩政時代からの「郷(外城)」を引き継ぐかたちとなった。
** 肝属郡鹿屋村・花岡村・大姶良村・高隈村・西串良村・姶良村・百引村
** 東囎唹郡市成村
* 1896年4月1日 - 郡区画改正に伴い、東囎唹郡市成村から曽於郡/囎唹郡市成村となる。
* 1897年2月 - 電信業務を開始。
ファイル:Kanoya Agricultural College 1925.jpg/thumb/県立鹿屋農学校(1925年)
* 1900年 - 鹿児島県農学校(現在の県立鹿屋農業高校)が鹿屋村に移転。
* 1901年 - 西原競馬場を開設。
* 1902年10月 - 電報・電話の業務を開始。
* 1912年12月31日 - 鹿屋村が町制施行、鹿屋町となる。
* 1915年7月11日 - 南隅軽便鉄道(1916年に大隅鉄道と改称、後の国鉄古江線→大隅線)のうち、高須 - 鹿屋間が開通。当時の鹿屋駅は向江町に設置されていた。
ファイル:Kanoya Town Office 1939.JPG/thumb/鹿屋町役場(1939年)
* 1916年4月 - 鹿屋町役場(後の初代鹿屋市庁舎)を現在の鹿児島銀行鹿屋支店の位置に設置。
* 1920年12月23日 - 大隅鉄道のうち、鹿屋 - 高山間が開通。
* 1921年8月11日 - 大隅鉄道のうち、高山 - 串良間が開通。
* 1923年 - 旧制中学校の県立鹿屋中学校(現在の県立鹿屋高校)が開校。
* 1923年12月19日 - 大隅鉄道のうち、高須 - 古江間が開通。
* 1929年2月 - 競馬場を札元に移転。
* 1932年5月15日 - 西串良村が改称・町制施行により'''串良町'''となる。
* 1933年2月16日 - 鹿屋町が町章(当時は「町マーク」と呼称)を選定。現在も鹿屋市章として使用されている。
* 1935年6月1日 - 大隅鉄道が国有化される。
* 1935年10月 - 古江線のうち志布志 - 東串良間が開通。星塚敬愛園が開園。
ファイル:Kanoya Navy Air Service.jpg/thumb/鹿屋海軍航空隊本部(現在の第1航空群司令部)
* 1936年4月 - 鹿屋海軍航空隊が開隊される。
* 1936年10月23日 - 古江東線の東串良 - 串良間が開通し、鹿屋 - 志布志間が開通。志布志線経由で宮崎方面へ鉄道のみで向かうことができるようになる。
* 1938年10月10日 - 古江線の改軌工事が完了。鹿屋駅が共栄町(現在の鹿屋市役所の位置)に移転する。
ファイル:1938 Kimotsuki District Storm and Flood Damages Aira 002.jpg/thumb/水害による姶良村(吾平町)の被害
* 1938年10月15日 - 台風襲来による大水害が発生。肝属川下流を中心に甚大な被害を受ける。
* 1941年5月27日 - 鹿屋町・花岡村・大姶良村が新設合併・市制施行により'''鹿屋市'''となる(初代)。
* 1942年5月 - 鹿屋市立図書館を当時の市役所内に開設。
* 1944年 - 鹿屋市立鹿屋工業学校(現在の鹿児島県立鹿屋工業高等学校/県立鹿屋工業高校)を設置。
* 1945年9月 - 第二次世界大戦の終戦に伴い連合国 (第二次世界大戦)/連合国軍が高須海岸(厳密には1km北の金浜海岸)から上陸。
* 1947年8月 - 向江町に市立図書館を開設。
* 1947年10月15日 - 姶良村が改称・町制施行により'''吾平町'''となる。
* 1948年3月 - 鹿屋警察署の前身となる自治体警察の鹿屋市警察が発足。
* 1949年6月 - 昭和天皇が鹿屋市内へ行幸する。
* 1949年12月 - 鹿屋競馬場で市営競馬を実施。
* 1950年2月 - 大字を廃止し、「町」を設置。一例として「鹿屋市大字中名→鹿屋市北田町」となる。
* 1951年12月 - 現在のかのやイベント広場のある地点(鹿屋郷の地頭仮屋跡地)に2代目(1代前)の市役所庁舎が完成。
* 1955年1月20日 - 高隈村が鹿屋市に編入合併。
* 1956年4月1日 - 百引村・市成村が新設合併・町制施行により'''輝北町'''(所属郡は囎唹郡)となる。
* 1958年1月20日 - 垂水市/垂水町新城の根木原・桜町地域を鹿屋市に編入。
* 1958年4月 - 市立鹿屋女子高校を設置。
* 1958年8月12日 - 北田交差点に鹿児島県では2番目、鹿屋市内では初の信号機を設置。
* 1959年11月 - 財政再建団体の指定を外れる。
* 1960年11月10日 - テレビ放送開始(鹿屋中継局の開局)。
* 1961年4月13日 - 古江線が垂水市海潟まで開通。
* 1963年 - 鹿屋競馬場を廃止。
* 1963年8月 - 祇園祭(鹿屋夏祭り)に「ばか踊り」が登場。30数年に渡り親しまれる。
* 1967年2月 - 当時の鹿屋市の花を「カンナ」、木を「クスノキ」と制定する。
* 1967年3月 - 高隈ダムが完成。
* 1972年4月1日 - 北田交差点が鹿児島県内では初のスクランブル交差点となる(現在は一般的な交差点)。
* 1972年5月 - 鹿屋市旗を制定。2006年以降の鹿屋市にも引き継がれている。
* 1972年9月9日 - 大隅線が全線開通。
* 1976年6月 - 集中豪雨により鹿屋市中心部が冠水。
* 1977年3月 - 鹿屋市文化会館が完成。中央公園内に小動物園が完成。
* 1978年4月 - 市立鹿屋看護専門学校を設置。
* 1981年5月 - 鹿屋市立図書館と視聴覚センターを現在地に設置。
* 1981年10月1日 - 鹿屋体育大学が開学(開校は1984年4月)。
* 1986年9月9日 - 国立大隅少年自然の家が開所。
* 1987年3月 - 日本国有鉄道/国鉄大隅線が廃線。
* 1991年5月7日 - 旧鹿屋駅のあった地点に市役所本庁舎を移転。同月27日に市制施行50周年を迎える。
* 1992年3月25日 - 国道220号鹿屋バイパスが全線開通。
* 1993年3月 - 霧島ヶ丘公園内に『かのやバラ園』を開園。
* 1993年7月 - 鹿屋航空基地史料館を開設。
* 1995年4月 - 水道事業を串良町と共同で実施(鹿屋串良水道企業団の業務を開始、鹿屋市上下水道部の前身)。
* 1996年6月 - 肝属川の水量を分担させる役割を担う『鹿屋分水路』が完成。
* 2003年11月 - バラの品種のひとつとして『プリンセスかのや』の名称が採用される。
* 2006年1月1日 - 鹿屋市・輝北町・串良町・吾平町が新設合併し、'''鹿屋市'''となる(2代目)。旧輝北町・串良町・吾平町は地域自治区として設置された。
* 2006年4月25日 - かのやバラ園の規模を大幅に拡大させて開園。
* 2007年4月1日 - リナシティかのや(鹿屋市市民交流センター)を開設。
* 2010年1月1日 - 地域自治区としての輝北町・串良町・吾平町を廃止。旧3町の大字を「(地域自治区)○○町(大字)○○」から「(大字)○○町○○」扱いに変更。
人口の推移
* 1941年 鹿屋市制施行(鹿屋町、花岡村、大姶良村が合併)
* 1947年 国勢調査 人口62,497人 13,633世帯
* 1950年 国勢調査 人口63,506人 13,757世帯
* 1955年 高隈村を編入
* 1958年 垂水町新城の根木原、桜町を編入
* 1960年 国勢調査 人口72,498人 17,541世帯(市域拡大のため)
* 1970年 国勢調査 人口66,995人 20,566世帯
* 1980年 国勢調査 人口73,242人 25,197世帯
* 1990年 国勢調査 人口77,655人 28,411世帯
* 1998年 人口8万人を突破
* 2005年 国勢調査 人口81,471人 33,929世帯
* 2006年 1月1日合併時 人口106,462人 42,992世帯(市域拡大のため)
旧鹿屋市の歴代市長
ここでは旧鹿屋市(2005年まで)の歴代市長を掲載する[『鹿屋市史 下巻(1995年版)』154頁。]。
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!代!!氏名!!就任年月日!!特記事項
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/初//竹内竹丸//1941年8月13日//1943年10月10日死去
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/2//永田良吉//1943年11月12日//1946年10月15日公職追放により退任。
国会議員/衆議院議員と兼任。鹿屋市初の名誉市民(1964年11月)
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/3//田平藤一//1947年4月6日//-
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/4//牧窪秀吉//1951年4月27日//1952年9月7日死去
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/5//児島静男//1952年10月27日//-
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/6//永田良吉//1956年10月7日//-
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/7//永田良吉//1960年10月7日//-
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/8//塩田兼雄//1964年10月7日//-
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/9//塩田兼雄//1968年10月7日//1969年5月19日死去
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/10//平田準//1969年6月29日//名誉市民(1986年9月)
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/11//平田準//1973年6月29日//-
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/12//平田準//1977年6月29日//-
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/13//蒲牟田喜之助//1981年6月29日//名誉市民(1996年2月)
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/14//蒲牟田喜之助//1985年6月29日//-
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/15//蒲牟田喜之助//1989年6月29日//-
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/16//浅井隼人//1993年6月29日//1994年4月1日死去
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/17//山下榮[[http://www.e-kanoya.net/htmbox/shicho/2007/ryakureki.pdf 市長のプロフィール] - 鹿屋市公式ウェブサイト内(現在はリンク切れ)。「栄」も使用される。]//1994年5月15日//現鹿屋市・初代市長(2006年2月5日-2010年2月4日)
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/18//山下榮//1998年5月15日//-
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/19//山下榮//2002年5月15日//旧鹿屋市廃止に伴い2005年12月31日に任期満了
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